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3.16 東京6:32発 はやぶさ1号で、仙台経由石巻へ。
更地の真ん中に家が見える。再建されたお宅があるのかと思ったら、取り壊すことができない住宅だという。土台をしっかり残し、すぐにでも住めるような真新しい家だった。 ![]() ![]() それでも、開館したマンガ館には、日曜日ということもあり、子供連れの家族が集い、にぎやかに屋台も出ていた。時間の関係で海鮮汁を食べることができず心残りだったが、2Fの展望台脇から石ノ森マンガの主人公達が降りてくるショーを楽しく見る事ができた。石巻の復興のシンボルともいわれたマンガ館がしっかりと蘇っていたのは、うれしかった。これからも復興の励みになっていくだろうと、素直に喜んだ。 ![]() ![]() ![]() 何時はじまるかわからない工事を仮設住宅でじっと我慢をしてきたそうだが、予定通りの場所で工事がはじまり、その高台移転の現場を案内してくれることとなった。 小指地区は、石巻高台移転の最初の工事現場である。海の見える場所ではあるが、大分山を上がる。山を崩し、道路をつくり、削ったところはコンクリで固める。想像以上の大工事である。住民説明では3Dコンターは大いに役立ったが、はたして移転計画にどれだけ意味があったか、後世の判断になる。ちなみに、あと12ヵ所高台移転計画があるというが、1ヵ所を除いては、まだ計画地すら決まっていないと聞く。山を下りながら、海沿いにあった元の集落跡地に車を止める。海が目の前に広がり、おだやかな入江は、良質なわかめが採れ、結束も固く、石巻でも再建のまとまりが早かった地域だったと聞く。ここでの集落の生活が目に浮かぶようである。海に出、浜でわかめを干し、ひなたぼっこをしながら一服する。そんな変わらぬ毎日に穏やかな日常があったのだろう。集落のすぐ脇に神社へ上がる階段がある。急ではあるが、危険がせまったらいつでも登れるように手すりもついて、踊り場もある。山の上にあるほこらは、何百年も前からそこにある。 ![]() 高台移転後の生活が小室のみなさんにとって、より住み良い場所であってほしいと思うとともに、元のわかめ漁の生活を元気で取り戻していただきたいと願いながら、海岸を眺めた。 ここで、米村さんと分かれ、一路気仙沼へ向かう。 長く道路が寸断されたところである。気仙沼線は線路が波でもっていかれ、ところどころにしかない。ひたすら走る道の両側はなにもない。タクシーの運転手さんは、おとなしい方である。余計な事は言わないが、ご自身も被災され、長く仮設住宅に住んで、ようやく家を建てたという。近所の人はほとんど戻らず、1からの付き合いがはじまったばかりとのこと。明るく話すが、容易なことではないだろう。 ![]() 通り過ぎる風景に見覚えがあると思ったのは、右手に観洋ホテルを見たときである。車をゆっくりと走ってもらい、記憶をたどる。震災の年の7月、南三陸に残った300年以上前の古民家を見せてもらったことがある。バスの開通がはじまったばかり。いけるところまで行ってと思ったが、古民家を所有する方が、駅に迎えにきてくださった。 ご自宅のある場所は海からは大分離れた少し小高いところにあったが、10mを越す津波は家の後ろの雑木林でようやくとまったそうだ。この古民家で普通に日常暮らしをしていたというが、建物は90度回転して玄関の位置が変わってしまったという。基礎ははずれたが、大黒柱も梁もつながっていた。しかし、300年前の古民家の修復費用は並大抵なことではなく、再建を断念。地元新聞にも大きく取り上げられた。当時、所有者の方は息子さんを亡くされたお姉さん夫婦と一緒に物置小屋の2Fで生活していた。避難所生活は年寄りにはきついと、雨風凌げればと手を加えて、古民家の行く末を案じながら自力で生活をされていた。避難所生活者への支援と大きな差があることを嘆きながらも、裏に畑をつくりキュウリの種を蒔いていた。収穫したキュウリを箱一杯におくってくださったことを思い出し、お会いしたいと家を捜した。残念ながら見つける事ができなかった。近所の方の話しでは、古民家は、解体され四国香川の古民家博物館に運ばれとのことである。 ![]() 高台にあるプラザホテルから眺める中心街、対岸も更地ばかり。ところどころに建物が残っているが、解体できず、使用もできないまま取り残されているものも多い。中に明かりの灯る店もある。元気印にお店を再開したところもあるらしい。今日は、朝早くからの移動である。ゆっくり温泉につかり疲れを取る。そして夕食の海鮮料理を味わった。 夕食後、知り合いの紹介で、女将から当時の話しを聞くことができた。 震災時の気仙沼プラザホテルは、警察、東電の詰め所として、また地元被災者の方も多く受け入れることができたそうだ。2時46分、震災時の危機迫る状況、その後の街の様子、復興活動の拠点としての役割、ホテルのフル再稼働までの軌跡、そして、震災をわすれないで、気仙沼に足を運んでほしい。と穏やかに話す女将の笑顔が印象的だった。 3/17 9:30 ロビーで西城さんと待ち合わせ。 気仙沼のVectorworksユーザである。震災直後から連絡が取れなくなって心配していたが、2週間後にようやく無事であることが確認できた。自宅は津波の被害を受け解体されたが、避難所から会社へ出向き、手がけていた物件の工事を再開していた。震災の年の秋に盛岡一ノ関から気仙沼を案内していただき、ここが、日本最大の水産加工施設のある場所で、海の食の流通を担うところでもあることを知り、タンク爆発による大火災と加工所の被害は日本の経済に大きな影響があることをはじめて実感した。あれから3年。その槌音はすさまじい。 食は鮮度がいのち。誰かが何かをしてくれるのを待ってはいられない。と、自ら土地をかさ上げしながら、加工所を再建し、事務所には人が出入りする。その同じ場所にショベルカーが土ほこりを立て、トラックが行き交う。 ![]() 西城さんによれば、通れる道がすぐに変わり、広い敷地を行ったり来たりすることもよくあるという。すべての土地がかさ上げされる迄、相当の年月がかかるだろうと思うが、海の男達による、水産加工地としての誇りと日本の食を守るという強い意志が今の気仙沼を動かしていることを強く感じる。 流された西城さんのご自宅の後ろの気仙沼線の線路はちぎれている。お隣は手を入れて住んでいるが、道路の移動、区画整理で早晩、取り壊しをせざるを得ないという。そういうお宅がまわりに何件もある。震災直後の通達が徹底されずに、費用をかけた自宅もやがて取り壊しになるとのこと。西城さんの自宅は、古かったので手を入れずに解体をしたというが、その費用もその時だけで、これから解体する費用負担はないようで問題になっているとのことである。震災後のさまざまな影響は、生活を取り戻しつつある今の方が大きいのかもしれない。 震災後工事を再開し完成した病院検査棟も案内してくださり、当時の様子も伺うことができた、以前は、ほとんど何も語らず、こちらが聞く事をぽつりぽつりだったが、今回は、トイレや洗面台など衛生機器も見せてくださり、リハビリセンターも案内してくださった。以前にもこの場所は案内いただいたが、外の景色を取り入れた開放的な空間、患者さんのリハビリを助けるさまざまな工夫についても、説明してくださった。 その後、一ノ関から、東京へ戻る予定だったが、集落ごとすべて流されてしまった、片浜地区、階上地区、大谷海岸、小泉地区へ案内してくださるという。 昨日、石巻から上がってきた道路であるが、今日は月曜日とあって、トラックがものすごい。道路は上り下りの坂を繰り返しているが、海岸近くを走る下り坂は、津波にそのまま飲まれ、道路をはさんで両サイドすべて、あとかたもない。何台ものショベルカーがところ狭しと砂利をおとし固めている。道路は、その砂利と盛土用の土を運ぶ大型トラックが行き交い、車の中でもマスクをかける。大谷海岸は、日本一といわれた海水浴場で、広く大きくシーズンには他県からも大勢が来たという。 ![]() 海岸すぐ後ろを気仙沼線が走り、大谷海岸駅があったという。ここでも献花台が設けられ、大勢の方が亡くなったことを知る。地元の方から声を掛けられ、海岸の地形が大きく変わってしまった事を教えていただいた。震災前は、40m先にあった砂浜が、今では全くなくなってしまったこと。相当のかさ上げをしないと住めないこと。自分がすんでいた小泉地区は、禁止地区になってしまってもう戻る事はできない。小さいけれどサーファがよく集まる場所だったと、話してくれた。その小泉地区迄、走った。ずっとずっと海岸線を走った。昨日と同じ道だが、上り車線と下り車線の違い、より海岸に近い方を走ったせいか、美しい海がすっと続いていただろうと、その景色を目の奥に思い浮かべながら、ショベルカーのけたたましい音を聞いていた。 ここに防潮堤をたてたら、この景色に蓋をしてしまうようなもので、海の上を走る風の流れさえも変えてしまうことになるのではないか。海に囲まれたこの美しい日本(安倍さんがすきな言葉)を、コンクリートで固めてその残骸を後世に残すのは、あまりにも悲しく、申し訳ない。 今、私たちは、科学も情報も知識も豊富にある。世界の人たちから、羨ましがられる風景も国民性も持っている。海の中に、巨大なコンクリートをつくるより、自然にあらがわない謙虚な気持ちで、逃げる手段に智恵とお金をつかえないものか、一旦決めた国の方針を変えることは出来ないなんて言わずに、今、本当に必要なことは何か?後世にはずかしくない選択は何か?自問自答がつづく。 ![]() 旅の最後、定年を迎えた西城さんが開業した一ノ関駅近くの設計事務所を案内していただいた。これから若い人を育てながら、盛岡、仙台で頑張っていきたいと笑顔で語る西城さんの机には、真新しいMACがおかれていた。 今回お会いした、杉さんとお母さん、米村さん、西城さん、みなさんご自身も被災した方々だが、地元で踏ん張り、一所懸命にやってきた3年間の足跡は、自信になって顔に刻み込まれていた。 プラザの女将さん、タクシーの運転手さん、大谷海岸で声をかけてくださった方、みなさんからも大きな励ましをもらったような気がする。 寄り添うことしかできないけれど、忘れない事でなにかが出来ることがあるかもしれない。と、これからも自分に言い聞かせていきたいと思う。 |
2014.3.19 エーアンドエー株式会社 代表取締役社長 内田和子 |