昨年6月、地元南相馬市の建設会社で設計を担当する島さんから復興支援の依頼がありました。会社業務は1ヶ月以上手つかずの状態だったそうですが、津波、原発で避難される方々の仮設住宅を急ピッチで建てなければならないと、ご自身も被害にあい避難所生活の中からのご連絡でした。
弊社の復興支援であるベクターワークスの寄贈は、被災地への訪問、現地での手交・操作説明を原則としていましたが、原発警戒地域ということで現地入りができず、取り急ぎソフトをお送りしました。
時折メールで状況をお聞きしていましたが、とにかく原発被害が広範囲のため、仮設住宅建設で忙しく新しいパッケージをあける間もないというほどで、訪問がかなわないまま時が過ぎてしまいました。

原発事故の調査結果が公表され、また東京でも反対運動が日に日に増していく中で、どうしても南相馬をお訪ねしたく島さんにご連絡をとり、7月30日、1年ぶりに警戒区域が解除された南相馬市小高地区へ入ることができました。
福島からレンタカーで2時間、聞き覚えのある川俣村、飯館村を通り、原町にある庄司建設工業の入り口に立つ島さんに、はじめてお目にかかることができました。無理無理にお願いした現地訪問でしたが、丁度、「相馬野馬追まつり」の最終日で会社が臨時休業とのことで、奥様共々現地を案内していただくことになりました。
まずは庄司建設工業で手がけた仮設住宅を見学し、「相馬野馬追まつり」に集まる人々に引き寄せられるように、小高神社へ向かいました。この地に1060年前から引き継がれているという伝統的な夏まつりです。勇壮な鎧姿の武者達の馬上姿をカメラにおさめることができました。小高地区は今年5月にようやく警戒解除がされましたが、除染がまったく進まず、自宅へ戻ることはできないそうです。今この除染が大きな問題になっています。


島さんのご自宅も案内していただきました。すぐ手前迄津波が押し寄せたそうですが、幸い家はそのまま残っています。しかしながら除染が済むまで戻れないとのこと。テラスから見える景色はどんなにか美しかったことか、季節毎に咲く花は、どんなに心をなごましたことか、今は伸びるにまかせたままの状態です。せめて、自宅へ戻られる時には、庭の雑草刈りをしに出向きたいと思いました。原発汚染色はどんな色なのでしょうか?山と緑に囲まれた美しい風景の中、本来そこに青々と実る田んぼには置き去りにされたまま車が泥につかっています。海からは爽やかな風がふいています。季節を運ぶ赤トンボが元気に飛んでいます。一直線の松林があったという海辺には、ところどころまばらになった松がゆれています。

岬のさきが福島の原子力発電所があるところだと教えられ、複雑な気持ちで遥か彼方を見つめました。そして今なお警戒区域指定になっている浪江町の入り口には通行禁止の柵、検問車、炎天下にたつ警備の方々で入ることができません。山並みの連なる道路の先にある街を想像することはできませんでした。

昼食は地産地消の食事処で、魚の立田揚げやカボチャのそぼろかけなどを美味しくいただきました。ほんの少しの間でしたが、マシーンを広げ、気になっていた操作もお教えすることができました。ショートカットや他のソフトとのデータ互換など、CADを使いこなしている方ならではのご質問も多く、会社でいろいろなCADを使っている中でベクターワークスへ移行するいくつかの懸念を解決することができ、操作の利便性を得心されていました。

復興住宅、再建計画は、原発事故地域ではまったく別に考えなければならないと、あらためて思いました。津波、地震、そして原発、二重、三重の苦しみの中で、家族がバラバラに避難生活を送っておられる姿を目の当たりにして、言葉はありません。ゆっくりはできないかもしれませんが、私たちがしなければならないこと、できることはたくさんあるように感じます。ようやく出向くことができた南相馬市を後にするとき、果物の宝庫福島、お米のおいしい福島、野菜がたくさん取れる福島、酪農豊かに育つ福島、そして名だたる名酒が揃う福島の名産が数々浮かびます。今回はじめて原発事故の被災地へ伺いました。福島の方々の線量計が1日も早く手放せる日が来ることを願いながら、もう一度原発問題に直視しなければならないとあらためて思いました。

(2012.7)
内田 和子
(取材協力:庄司建設工業株式会社 島 惚一 氏)