石巻駅前の商店街では石ノ森 章太郎さんのマンガ像がところどころにおかれています。津波はこの商店街を川のように流れ呑み込んでいったそうです。石巻で設計事務所をしていた杉さんの事務所も津波でながされ、商店街で喫茶店を営むお母様のお店の2Fを仮事務所にしていた杉さんにはじめてお会いしたのは、6月下旬でした。

駅前の道路は陥没し、海からは随分と離れた商店街にもかかわらず、津波が通った後がくっきりと残っていました。街を一望できる日和山に案内していただき、遠く形を残すマンガ館をみながら目を凝らすと、一帯が跡形もなくなっていました。かすかに残るかに見える家々もカーテンがゆれています。入り口から向側がそっくり見えてしまっているのです。

入江になっているため四方から水が押し寄せ、日和山から見る西側も東側も瓦礫が点在していました。当時、まだ見つからない家族を捜しに海辺を歩く人も多く、また葬儀も毎日つづいているとのことでした。海辺に下りて一帯を車で走りましたが、その光景に息をのみました。大きな入り口を持つ料亭や、真新しい美容室の看板が落ち、広い海に向かって建つ小学校は、真っ黒く焼け落ちていました。海辺に掲げられた『がんぱろう 石巻!』の前にはたくさんの花が手向けられていました。
あれから7ヶ月、商店街で被害の大きかったお店は取り壊されていましたが、残ったお店もほとんどシャッターは閉じられたままになっています。

杉さんが以前に設計をした住宅もほとんどが流されたそうですが、駆体の残っている住宅のリフォームを依頼されるものの、片付けをボランティアに頼んでいる状況で、設計料はなかなかいだだけないとのことでした。
大工さんの手配もつかず、完成まで3ヶ月も遅れてしまっているとのことでしたが、以前の手書き図面はVectorworksで描き直し、パース図も完成させていました。
日当りのいい大きな和室やリビングの様子は、家族団欒のイメージを思い起こさせるものでした。行政によるさまざまな計画も出されているようですが、地元設計者の小さな声がなかなか届かず、ハコモノが先行してしまうことを危惧されていました。

 
石巻駅前商店街は震災前からシャッター通り
になっていたようで、杉さんたちは街おこしのためにさまざまな提案や企画を出していたようですが、その矢先の震災で多くの友人をなくされた杉さんにとっては、気持ちを奮い立たせることは容易なことではなかったと思います。

今回の訪問は仙台から高速バスを使って石巻に入りましたが、駅前のお母様の喫茶店が見えたときは、ホットしました。お話を伺っている時もひっきりなしにお客さんが見えます。シャッター通りになっていても、話しのできる場が必要なんだとあらためて思いました。

住宅メーカーや工務店も地元に入りはじめたそうですが、街全体としてはなかなかまとまっていかないことを嘆いていました。「このままでは石巻は取り残されてしまう。本当に地元が今望んでいる事に耳を傾けてほしい」と、話される杉さんに、「頑張って」という言葉はかけられませんでした。「地元の方の方のためにたくさんの設計をしてください」と声をかけるのがやっとでした。

(2012.1)
         
【取材終えて】
東北の人は我慢強いといわれますが、実は口が重く自分のことは語るのが苦手だとおっしゃいます。
私は今回の訪問で、復興の槌音は遥か遠く、このままでは被災地の方々は疲弊してしまうと思いました。街を失った方々のこれからのくらしをもとに戻すことはできるのだろうか?私たちに応援できることはあるのだろうか?と、さまざまな思いが頭をかすめますが、災害に遭われた方々が少しでも夢を持つ事ができるように、地元の方の活動を応援していくことは、私たちにも出来ることかもしれないと思い直し、このレポートを書いています。
未曾有といわれた、3.11大震災。今一度、私たちにできることは何かを問いながら、想いをかたちにしてしていくための支援を続けてまいります。
内田 和子
(取材協力:杉設計建築スタジオ 杉 孝二 氏)